新元号「令和」の詳しい意味と万葉集の本文・万葉仮名についても

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昭和に続く新しい元号が「令和」となりました。

今上天皇の退位にともなう御代替わりで使われる元号です。初めて漢籍ではなく我が国の文書から採られたことでも画期的です。

令和の出典文書(万葉集)と出典文章につき調べてみました。

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令和の意味は?

政府の説明
首相談話によると「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている」とのこと。

令和の英語表記
令和の英語表記はReiwaで、外務省は対外的にReiwaの意味は「beautiful harmony(美しい調和)」であると説明するとのこと。

出典を基にした素直な解釈
令の出典の令月は「よきつき」の意です。
令は「立派な」・「素晴らしい」の意味と、季節の意味もある(※)ので、単純にそのように受け取ればよいのでは、、
和の出典の風和は「かぜなごやかに」の意です。
和は「やわらぐ」・「なごむ」・「なごやか」の意味があります。(※)

したがって、「素晴らしい季節のなかで和やかに過ごす」というのが素直な解釈になると思われます。
良い言葉ではないでしょうか。
政府の説明は「梅花の宴の序文」という背景を含めての拡張解釈といえますが、令は命令の意味だからけしからんと無知をさらすひとも困ったもんです。

(※)新潮日本語漢字辞典

令和の出典は?

万葉集の第五巻、雑歌の部にある「梅花の歌。三十二首並びに序」の大伴旅人の序文から採られています。
奈良時代の天平2年(730年)、聖武天皇の御代です。
この時、大伴旅人は筑前国に置かれていた大宰府の帥(長官)でした。
万葉集の成立におおきく係ったとみなされている大伴家持の父です。
詠歌者として名前の挙がっている人は役所の下僚や筑前守・豊後守・筑後守・壱岐守など近隣の国のトップに加えて大隅目・対馬目・薩摩目などの遠方の国の役人も含まれていて、非常に大規模な梅見の宴だったと思われます。
※読み下しおよび口語訳は折口信夫の口約万葉集によります。

序文について

序文原文は
天平二年正月十三日,帥老の宅に萃(あつま)り、宴会を申(の)ベつ。時に初春の月(よきつき)にして、気淑(きよ)く風(なご)やかに、梅は鏡前の粉(よそほ)ひを披き、蘭は珮後(はいご)の香を薰(かを)しぬ。加以(しかのみならず)、曙の嶺は雲を移し、松は蘿(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫は霧を結びて、鳥は穀(となみ)に封(ふう)ぜられて林に迷ふ。庭には新蝶舞ひ、空には故雁帰れり。於是(ここに)天を蓋(きぬがさ)にし、地を座にして、膝を促(ちかづ)けて、觴(さかづき)を飛し、言(いふこと)を一室の裏(うち)に忘れて、衿(えり)を煙霞の外に開き、淡然として自ら放ち、快然として自ら足れり。若(けだ)し翰苑に非るよりは、何を以て情を攄(の)ベむ。請はくは、落梅の篇を紀(しる)さむことを請ふ。古今夫(それ)何ぞ異ならめや。宜しく園の梅を賦して、聊か短詠を成すべしてへり。

序文は万葉仮名ではなく、漢文で書かれています。
出典部分前後の原文は次のとおりです。

時初春
月気淑風
梅披鏡前之粉
蘭薰珮後之香

梅花の歌について

この序文の後に梅花の歌32首が並べられていますが、
旅人の歌が主人として入っているので、招待客は31人だったと思われます。
貧窮問答歌で良く知られている歌人の山上憶良も入っています。
当時、筑前の守(福岡県西部の行政トップ)だったんですね。

主人(太宰帥 大伴旅人) 822
我が園に梅の花散る。ひさかたの天より、雪の流れ来るかも
自分の家の庭に、梅の花が散る。或いは空から、雪が降って来るのではなかろうか、とも思う。

筑前守 山上大夫(憶良)818
春さればまづ咲く宿の梅の花、ひとり見つつや、春日暮さむ
このお邸の梅の花は、春がくると、第一番に咲く花だ。それを自分ひとりだけが見て、永い春の日をば、楽しんでいてもしようがない。人と共に楽しもう。

やはり32首のなかでも、この二人の歌が抜きんでています。

天平二年正月十三日は西暦では730年2月4日です。

気象庁の資料によると
福岡の梅の開花日は平年で2月2日です。
宴の日付は西暦では2月4日ですから
まさしく梅は咲き始めの見ごろだったと思われます。

なお、このころは梅といえば白梅を指していました。
このことは旅人の歌からもあきらかですね。

梅を貴ぶのは中国伝来で、花といえば梅を意味していました。
花といえば桜を指すように変わったのは平安時代からです。

万葉集と万葉仮名について

万葉集

万葉集は全20巻、4500余りの歌を載せた日本最古の歌謡集です。
作者は天皇から庶民までと多彩であり、形式も短歌に限らず、長歌・旋頭歌・仏足石歌などが含まれます。収録作品は仁徳天皇の時代から選者に擬せられる大伴家持の時代にまで渡っています。
成立時期も定かではありませんが、奈良時代から平安初期の間に現在のような形をとったと考えられています。

万葉仮名

上記梅花の歌32首中の大伴旅人の歌は万葉仮名で書かれています。
原文は次のとおりです。
(対応するひらがなを下に載せます)

和何則能爾 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母

わかそのに うめのはなちる ひさかたの あめよりゆきの なかれくるかも

どうです、なんとなく分かりませんか。

「ひさかたの天より」の「天」は「てん」・「あま」・「あめ」と幾つかの読み方がありますが、万葉仮名から「あめ」が正しいと分かります。
これらの漢字の草書体からひらがなが出来ました。
明治以降はかな表記が統一されて、ひらがな一文字の表記が一字母(元となる漢字)からの一表記に統一されましたが、それまでにあった表記法は変体かなとして書道では残っています。

例えば現行字体の「な」は「奈」の草書体から採られていますが、他に「な」と読ませる字母は上記の歌に見られる「那」の他にも、難・菜・南・名などがあります。

まとめ

新元号「令和」は良い命名だと思いますが、政府が得々とその拡張解釈を述べたり、野党が上げ足をとったりで、折角の元号が政争の具になってしまいました。
それでも大多数の国民は素直に喜び、万葉集の売り上げも伸びました。
元号は今の制度では天皇陛下の諡号ともなるわけですから、幾つかの候補は出すにしても最終的には天皇陛下ご自身にてお決めいただくように制度を改定すべきではないでしょうか。